日本・東アジア社会の細胞形態と「民主主義」by高杉公望)

 

東アジア社会の細胞形態

 東アジアの社会とギリシア、ローマ、ゲルマンの社会とでは、細胞形態からして異なっている。

 ギリシア、ローマ、ゲルマンの社会では、未開の氏族共同体や部族国家の段階から話し合いによる意志決定が基本形態としてあった。アメリカ移民のタウン・ミーティングのようなものが、社会の細胞形態としてある。したがって、ポリスやレス・プブリカや封建社会となっても、公民や騎士・貴族層の議会といったものがあった。近代になって、その基盤がブルジョアジーへ、さらには大衆民主主義へと拡大されてきたわけである。

 その間、たしかに僭主や皇帝や絶対君主の時代が現れたが、それは、臨戦体制が恒常化したという法的形式をとっていた。むろん、そのような異常事態が固定化したのは、発展段階がすすむとともに社会の人口規模が巨大化し、内部の利害関係が複雑化したために、中央集権的な権力支配が必要な局面が現れたからであった。しかし、基本的な細胞形態のほうが形状記憶の原理となっているので、長い歴史の中では、たえず、より広い人口規模のもとでの合議制へと開かれてゆくということになった。つまり、民主主義の基盤の拡大として制度的な変革がおこなわれてきたのであった。

 それに対して、東アジアでは、社会の細胞レベルで話し合いということはあまり考えられない。それぞれの国での違いもあるだろうから、ここでは話しを日本に限定しよう。

 日本の神話や説話の中には物事を話し合いで決めてゆくというような痕跡はほとんど見出しがたいように思われる。部族連合だった大和朝廷でも、いつのまにか大王が神権的権威を世襲化してしまい、豪族間の議会制度らしきものは構想すらされなかったのである。また、鎌倉武士団が軍政的な実権を握ったときも、まずはじめに天皇の末裔である源氏の棟梁を担ぎ、次に、ある程度、武士団の合議制の側面があった幕府も、いつのまにか北条氏が執権職を世襲的に独占してしまった。豊臣秀吉の政権も、五大老・五奉行制をとって大名合議制のかたちを部分的にとってはいたが、たんに軍閥連合政権という以上の構想力をもったものではなかった。徳川幕府となると、幕政を徳川家とその世襲家臣団の私物としてしまった。

 おそらく、室町時代における一向宗の講や、あるいは惣村や町衆といったものが、ヨーロッパ的な社会の細胞形態の兆しに近いものであったかもしれないが、石山合戦や兵農分離、刀狩り、太閤検地などをつうじて徹底的に芽を摘まれてしまった。

 興味深いのは、天照大神が天の岩戸に隠れて世界が暗黒になってしまったときに、八百万の神々が集まって協議した、という神話である。このことで思い起こされるのは、幕末に黒船が来航したときに、幕府ははじめて諸侯の意見を聴取することにしたということである。その結果、幕府の統制力がいっきょに低下し始めたのだった。日本では、平時にはお上に一任し下々が御政道に口を挟むなどということは考えられもしないが、危機に瀕すると判断能力を失ったお上は、合議制に頼ろうとするのである。これは無責任の現れにすぎない。

 これとは逆に、ローマやアメリカの制度では、危機の際ほどリーダーに全権を委任するが、そのかわりリーダーの任期などについて厳しい制約を設けるというようになっている。ローマ共和制においては、戦時などには「独裁官」を任命したが任期は厳格に一年限りであった。アメリカ合衆国も、戦争となるといっきょに大統領の支持率があがることはよく知られている。

 それにもかかわらず、ローマやアメリカの法制度的な「遺伝子」においては、平時にはあくまでも合議制が原型としてある。臨戦体制を恒常化することによって専制君主制や封建制が数百年も続くことがあったが、法的な社会構成の形状記憶においては、あくまでも合議制へと回帰しようとする力が働いてきたのであった。

 翻って、日本では、イギリスやアメリカの教育的指導のもとで法・政治制度を西洋型にしても、それは一時的なものにすぎす、東アジア的な社会構成へと回帰しようとする力が働き続けていると考えざるをえない面があるのではないだろうか。

 

日・韓・台はなぜ親米リベラリズムなのか

 日本では、明治以来のエリート階級がイギリス流のオールド・リベラリズムと、戦後のアメリカ流のデモクラシーを表面的に受け入れてきた。それはイギリスやアメリカの傘の下にあることによって事実上強制されたものであった。したがって、本質的にリベラリズムやデモクラシーが体得されているわけではない。欺瞞的な支配者層によるものでしかないのである。

 明治維新は、イギリスの傀儡である薩長軍閥が、イギリスその他の西欧モデルを忠実に模写することとして行われたものであった。不平等条約の改正をめざし、日英同盟の締結に至るまで、日本はイギリスをはじめとする欧米「国際社会」の忠実なる生徒であった。しかし、日英同盟が結ばれていた二十年間には、日本はイギリスに対等と認められ大国ロシアに勝利を収めて有頂天になり始めた。ところが、第一次大戦後のベルサイユ・ワシントン条約体制のもとで、日本が日英同盟の枠組みを失ってしまい、かつアメリカをはじめとする「西洋」に対する被害感情をもちはじめるようになると、わずか五十年程度の欧化政策の地金が出はじめ、急激に民衆のナショナリズムが台頭してくることとなった。

 そのようなときに、日本の支配階級は、古典的リベラリズムを奉じて、大正デモクラシーのもと護憲運動に精を出していたのである。民衆はいまだに日比谷焼き討ち事件や米騒動のような大規模な暴動を十年ごとに行うような経済・社会状態でしかなかったにもかかわらずである。しかも、ときあたかも、世界史的には十九世紀以来の古典的リベラリズムが退潮し、社会主義、共産主義、全体主義の風潮が高まってきたにもかかわらずである。このようにピントのぼけたオールド・リベラリストたちは、やがて軍部や民間右翼の攻勢に耐えられずに、次第に崩れ去っていったのであった。

 民衆のナショナリズム感情をウルトラ化した超国家主義と、軍部による軍国主義が結合して、日本は泥沼の大陸侵略政策にはまり込んでいき、その結果、日米戦争にまで突き進んでいき、米軍の占領下におかれるまでになったのであった。

 第二次大戦後、東アジア社会の中で日・韓・台だけが親米リベラリズム体制だったのは、完全に地政学および歴史学的な要因によっている。すなわち、大日本帝国が、しなくてもすんだ日米戦争を行って自滅したことによって、日本およびその植民地だった韓国(南朝鮮)、台湾がアメリカの影響圏に入ることとなったからである。また、対照的に、北朝鮮、大陸中国は当初はソ連の影響圏に入ることとなった。

 その結果、第二次大戦後の韓国や台湾においては、経済・社会の発展水準や北朝鮮、大陸中国との軍事的な緊張関係もあいまって、ながらく軍部独裁的な体制のもとで親米・反共路線がとられてきたのであった。それに対して日本では、経済・社会の発展水準や地政学的に韓国、台湾よりもソ連、中国、北朝鮮から引き下がったところにあったことなどにより、議会制民主主義のもとで親米保守政党による単独政権が長らくつづく構造となったのである。

 しかし、戦後の日本における経済・社会の発展水準も、欧米型のリベラリズムやデモクラシーがただちに社会的な土壌に定着しうるほど成熟していたわけではなかったのである。

 

軍政的社会主義が相応の発展水準

 もし、日本政府が日米戦争に踏み込まなければ、大日本帝国は米英に頭を押さえつけられながらも、東アジアの中心的なパワーとして存続していたであろう。その場合、悲惨な軍国主義の圧政が続いたかのように思うのは、ある程度までは遠近法的倒錯である。

 軍国主義のもたらした悲惨さの記憶そのものは、まず圧倒的に日米開戦後の総力戦の凄惨さによるものであるし、また、国内の政治弾圧も、共産党をのそげば日中戦争以降の戦時体制そのものによるのである。しかも日中戦争の段階までは労農派など社会主義者への弾圧までであった。それが自由主義からついには軍部の皇道派のみならず統制派の反東条派にまで憲兵の弾圧が及ぶようになったのは、日米戦争の戦時体制そのものによっている。

 したがって、日米戦争の原因となった日中戦争も泥沼化を回避できていれば、共産党をのぞく社会主義者の弾圧そのものもそれほどではなかったわけである。

 そうした場合は、大日本帝国は、農村の疲弊と都市の資本主義の発展による矛盾の進展から、ビルマにみられたような軍政的社会主義に落ち着いたとみるのが自然である。そして、タイでみられたように、天皇を中心として軍部内部で政権をたらい回しにするような形態となった可能性も想像される。

 すなわち、東南アジアも含んだ東アジア圏は、日本を先頭として、軍政的社会主義の体制をとる国々が地域ブロックを形成するのが、自然な流れであったといえるのである。

 ところが、歴史の現実においては、太平洋戦争にいたる日本政府・軍部の迷走によって、そうした流れがねじ曲げられてしまった。すなわち、戦争の結果として大日本帝国は滅亡し、東アジア地域の地政図が一変してしまったからである。

 中国・北朝鮮にソ連系の体制が生み出されると同時に、日本・韓国・台湾にはアメリカ系の体制が生み出されることになった。そして、東アジア地域は、それら両体制の陣営がじかに軍事境界線を接して睨み合う、冷戦と代理戦争の地域と化してしまったのであった。

 日本も1951年まで米軍の占領下にあった。そのため、日本社会、あるいは東アジア社会の自然な流れでは、せいぜい軍政的社会主義がありうべき社会の発展水準だったのにもかかわらず、アメリカの占領軍によって大規模かつ根底的な社会改革が施され、いっきょにアメリカ型の民主主義が導入されることとなった。日本の「戦後」はこのようにしてはじまったとみられるべきなのである。

 戦後の全学連の運動は、非常にエリート主義的な指導部に主導されていた初期にはともかく、60年安保全学連の解体以降は、アメリカによって導入された民主主義的な制度そのものを否定する方向へと突き進んでいった。そして、最後には壮絶な相互の殺し合いにまで行き着いた。そこには、実態的にはせいぜい軍政的社会主義の段階にあった日本社会(とそれを取り巻く東アジア社会)の発展水準が刻印されていたといってよいのである。

 つい十数年前の軍国主義による凄惨な傷痕もいまだ生々しく残っていたであろうし、また同時代的に朝鮮半島やインドシナ半島で戦争が行われていた。その時代の空気を吸った日本社会の若者たちが、反戦平和を掲げながら赤色軍国主義へと染まりやすかったとしても、それほど不思議なことではなかったのである。

 

リベラル・デモクラシーの仮面

 日本にとっては、サンフランシスコ講和条約による単独講和と日米安保条約とは、独立後の日本もまた、そのような地政学的位置に組み込まれ、アメリカ陣営に立つこと選択することを意味していた。したがって、当然ながら親ソ連派はそれに対して反対の立場をとった。

 現に在日米軍の統治下にあり、米ソ冷戦の最前線に近い位置にある日本列島において、非武装中立論を唱えるのは、まったくの空論であった。むろん日本だけの都合だけを考えれば、それは空論とはいえない。むしろ、ソ連や中国の脅威を煽るのはためにする議論でしかなく、非武装中立でも心配はなかった。だが、それはアメリカの地政学的な都合を無視した議論であった。そして、米ソ冷戦下の最前線のすぐ近くにおいてアメリカの都合を全否定する選択肢は、好むと好まざるとにかかわらずソ連側につく以外にはとりようがないような軍事上の地政学的位置にあったのである。

 そのために、日本社会は親米保守政権のもとでアメリカ型のリベラル・デモクラシーを採用し続けた。原爆投下と無差別大空襲をやったアメリカよりも、それ以上にソ連の恐怖政治のほうがはるかに怖ろしいということを、日本の民衆はよく知っていたからである。そのために、長期にわたって親米保守政権が過半数の議席を確保し続けたのであった。

 しかし、現実には親米保守政権とその支持勢力は、戦前以来の伝統的な支配層や農民層であって、体質的にはそれほどリベラルでもなければデモクラティックでもなかったというのが実情であった。

 また、当然ながら米軍の大空襲や原爆投下による膨大な無差別殺戮をこうむった日本人のあいだには、反米感情も根強く存在していた。そのうちの一部がソ連、中国の共産主義へのシンパシーに結びついて、反米愛国を掲げ、反リベラリズム、反デモクラシーを実態とする「革新」勢力が形成されのだった。しかも、この「革新」勢力は、米国からの下され物である日本国憲法と戦後民主主義を錦の御旗とするというねじれた構造が形成されたのだった。

 つまり、日本社会には、ほとんど誰も本気でリベラリズムもデモクラシーも信奉していなければアメリカを快くも思っていない社会基盤の上で、一方には現実主義によって親米・自由民主主義を掲げる政治勢力があり、他方には反米愛国の情念と米国下され物の日本国憲法、しかも象徴天皇制・私有財産制度を根幹とする、その日本国憲法に規定された米国型リベラル・デモクラシーを、後生大事に護持しようとする「革新」「進歩」派的な政治勢力しか、ほんとうには存在していないのであった。共産党系の「革新」「進歩」派は、米国下され物のリベラル・デモクラシーの傘の下に隠れて、親ソ連・中国派的な政治的主張を展開しようとしたのである。

 つまり、嫌々ながらの親米のために体面上リベラル・デモクラシーを支持してきたにすぎない自民党勢力と、反米・親中ソのために米国下され物の憲法のリベラル・デモクラシーを支持してきたにすぎない共産党・社会党勢力とが、戦後日本の主要な政治勢力だったのである。

 極端にいえば、戦後日本における米国型のリベラル・デモクラシーは、一方は国家社会主義者たちのつけた仮面であり、他方はソ連型社会主義者たちのつけた仮面でしかなかったのである。

 

健全野党の不可能性

 日本で健全野党が育たない理由の一つは、社会の細胞形態からして議論によって物事を決めてゆくというようにはなっていないということに遡らざるをえないであろう。欧米の社会構成では、一時的に独裁的リーダーシップに傾いても、形状記憶は合議制のほうへと回帰するのに対して、日本では逆に、一時的に欧米型の議会制民主主義を導入しても、形状記憶は世襲制、官僚制のほうへと回帰してしまうのである。日本では、天皇制権威秩序のもとで世襲制、官僚制が固定化しやすい。そこでは、政権交代を促すような内発的な契機は存在しないに等しい。

 かりに、一時的に反体制勢力が高揚したとしても、明治以降はイギリスやアメリカの超自我的な禁圧が存在してきた。それがまったく自覚されずにすんだのは、そのような構造が目に見えるようになるはるか手前のところで、日本の反体制運動は退潮してしまうからであった。戦後の時空間において、そのことをみえにくくしてきたのは、日本の天皇制的権威秩序に対して反体制的な野党の立場に立つものが、究極的に刃向かおうとする対象がアメリカであったためである。しかも、日本にとって超自我的な存在が、ソ連や中国ではなく、明治以降はイギリスであり、戦後はアメリカであったために、形状記憶の回帰すること――軍政的社会主義への――がかえってイギリス、アメリカ的な超自我によって抑制されるという構造があったためである。

 健全野党を本来あるべきものとするようなイギリス、アメリカ的な超自我が、日本の現実の野党勢力にとっては究極の敵であるというねじれた構造が、明治以降、敗戦以降の日本社会には存在してきた。そのため、日本は本来あるべき議会制民主主義と健全野党が育たない、奇妙な国である、ということを与党系の支持層のほうが考えるような奇妙きわまりない「国体」の国となり果てたのである。だからといって、政党再編を掲げて自民党から分派した政治勢力からも、いっこうに健全野党の芽は育ってこないのである。

 

 社会の細胞形態から違うところに、近代の議会制民主主義を移植しても、簡単には根づきえない。そこには、より緻密な遺伝子工学的な移植技術が必要とされるに違いない。(200352日)

 

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